2011年7月16日土曜日

もうモンちゃんはいない


 このあいだ、

 息子(9才)が、剣道(市の短期の習い事)に行くと出かけて、

 実は行かないで友だちと遊んでいたことが判明して、

 母としては嘘をつかれたことにけっこうショックを受ける、という出来事があった。
 

 でも、

 彼に嘘をつかせてしまったのは、

 わたしのやり方がもうまずいんだろう、

 いつのまにか彼をきゅうくつにさせてしまっていたのだろう、

 もう彼は、「わたしがただやみくもに守るべき小さきもの」ではないのだなあ、

 と、

 親としての方向転換をはっきりと考えさせられるきっかけになったできごとでもあった。


 そんな思いでいるときに、

 夫がわたしに、

 「もうモンちゃんはいないんだよ」

 と言った。


 "モンちゃん"というのは、

 息子が小さいころに、

 かわいくって呼んでいた愛称。

 モンちゃん、モグ、ムンちゃん、チャム、そういう、なんかかわいい気持ちのときに呼んじゃうやつ。

 小さきかわいい者へ、愛を込めて。

 
 けれどもそんなモンちゃんは、もういない。

 そんなこととっくに分かっているのに、

 はっきりとそう言われると、小さい頃の奎を思い出し、計らずも泣いてしまった。


 分かっているつもりだったのに。

 
 夫の方は何年も前に、ひと足さきにそれを痛感していて、

 もう奎(ケイ)は赤ちゃんじゃないんだなあ、と寂しがる様子を見ながら、

 奎はまだまだかわいいよう、小さきかわいい者だよう、

 と我ながら勝手に思っていた節がある。

 
 けれどもここに来て、
 
 9才のひとりの少年のいろいろな思いを、

 すごく大きな視点から見守ってあげなくてはいけないところに来たのだなあ、と感じている。


 彼が痛みを感じるなら、闇雲にそれを排除しようとするのではなく、

 その痛みを体験している彼をまるごとそっくり受け止める、というような。


 けれども母としてはどうしても、

 彼がどうか傷つくことのないように、

 困ったことが彼におきませんようにと願ってしまうし、

 実際なにかあれば、どうにかしてその困った現象を取り除こうとやっきになってしまう(当たり前だけれど)。


 でもそれはもしかしたら、彼の貴重な心の成長の機会を奪ってしまうことになるのかも知れない。


 すごくすごくムツカシイけれども、

 わたしはもう、

 少しずつ手を放してあげなければいけない。

 彼が彼の人生を、伸び伸びと生きるために。いいこともいやなことも全部ひっくるめて彼の体験なのだから。

 たとえ困ったことが起こったとしても、彼にはそれを乗り越えるたくましさがあるということを、全面的に信頼して。


 9才の彼にはまだまだたっぷりの愛情とお世話が必要だけれども、

 だからと言って自分の思うようにコントロールすべきではない。

 
 彼の選択を静かに見守りつつ、

 できる限りの愛情をそそぎ続ける。


 いろんなことにいちいち心をかき乱されつつも、

 彼をそのままそっくり受け止めながら見守って行けるよう、

 自分自身も成長しなくてはです。

 

 モンちゃんはもういない。

 けれどもすくすくと成長して、

 まだしばらくはわたしのそばで、かわいい寝顔でスヤスヤと眠ります。


 ありがとうね。


 母はもっと強くやさしく大きくなりたいです。

 

4 件のコメント:

kokutenho さんのコメント...

成長されてますね。
嘘を付くのは成長の証。
と将来思いたい、3歳児の父です(笑)

イノトモ さんのコメント...

kokutenho さん
ありがとうございます。
3歳かあ、まだまだかわいいですね!

メグミ さんのコメント...

イノトモのシロツメクサを聴くと、どうしても泣いてしまう。自分の中に母が大好きな自分と、イノトモのように子を想う母の部分があって、懐かしくて泣いてしまうのかな。だけど無条件に愛し合うことは、これからも一生続く。パパの厳しく静かな愛にも心うたれる。子どもって、ほんとに愛の結晶なんだね★そして私たちも★

イノトモ さんのコメント...

メグさん
ありがとう。
そうだね、愛のかたまりだね。